閔妃はどんな人?悪女か改革者か、明成皇后の史実
景福宮の北の端には、いまも乾清宮が残っています。1895年10月8日の夜明け前、ここで一人の王妃が命を奪われました。日本の辞書では「閔妃(びんひ)」の見出しで引かれ、死後に明成皇后の名を贈られた女性です。では、閔妃とはどんな人だったのでしょうか。朝鮮で初めての西洋式病院の誕生を後押しし、近代的な将校の育成にも力を入れた政治家でありながら、ドラマの中では嫉妬深く迷信にすがる陰謀家として描かれた時間のほうが長く続いてきました。評判と記録のこの食い違いこそ、彼女が何度でも掘り起こされる理由です。
早わかり回答
- 日本で閔妃(びんひ)と呼ばれる明成皇后は、朝鮮王朝第26代国王・高宗の妃で、清・日本・ロシアの圧力にさらされた王朝末期の宮廷を30年近く動かしました。
- 1895年(明治28年)10月8日、景福宮の中で日本の刺客に殺害されました。この乙未事変は、日本の辞書では「閔妃暗殺事件」の名でも立項されています。
- 古いドラマは腐敗した陰謀家に、近年のドラマは悲劇の殉教者に寄せて描きがちですが、記録が示す実像はその両極のあいだにあります。
閔妃はどんな人?明成皇后の史実
閔妃は、波風を立てない花嫁として王室に迎えられながら、やがて朝鮮王朝最後の時代を左右する実力者になった人物です。出身は驪興閔氏の傍流で、親を亡くした家の娘でした。高宗の父で摂政を務めていた興宣大院君が彼女を選んだのは、まさにその点を買ったからです。近い男性親族がいなければ、外戚が派閥を作る心配もないと見込んだのでした。韓国学中央研究院の百科事典によると、王妃に選ばれたのは1866年、数えで16歳のときです。大院君の見込みが外れるまで、10年もかかりませんでした。1873年に高宗がみずから政治を執りはじめ、大院君が摂政の座を降りると、彼女は遠縁の閔氏を次々と要職に就け、舅にとって最大の政敵となります。日本ではちょうど同じ明治6年(1873年)、征韓論をめぐる対立から西郷隆盛ら5人の参議が政府を去る「明治六年の政変」が起きていました。その後も彼女は危機をくぐり抜けています。1882年の壬午軍乱では庶民の身なりでソウルを抜け出し、死亡説まで流れるなかで生き延びました。1884年には、親日派の改革派が起こしたクーデター、甲申政変も乗り切っています。どちらの出来事も同情を引くための脚色ではなく、朝鮮王朝の宮廷記録と各国公使館の報告書に残る史実です。
明成皇后は悪女だったのか、それとも改革者だったのか?
史料を読むかぎり、どちらの呼び名もそのままでは当てはまりません。彼女が閔氏一族で官職を固め、一族の権勢を揺るがす改革を拒んだのは事実で、1880〜90年代に日本や一部の西洋の新聞が伝えた「陰謀家」の評判はここから来ています。一方で、彼女が実権を握った宮廷は、近代化に向けた確かな手も打っていました。1885年、ソウルの斎洞に朝鮮初の西洋式国立病院が開かれます。きっかけは前年の甲申政変でした。閔氏一族の閔泳翊が刀傷を負い、その治療にあたったアメリカ人宣教医アレンが病院の設立を提案したのです。開院時の名は広恵院で、およそ2週間後に済衆院と改められたため、同じ病院が二つの名で記録に残っています。1890年代に入ると、彼女は強まる日本の支配に対抗する重しとして、高宗をロシアの後ろ盾へと導きました。ブリタニカ国際大百科事典の「乙未事変」の項は、三国干渉で朝鮮における日本の威信が落ちると閔妃派がロシアに接近した、と説明しています。意地や気まぐれではなく、勢力の釣り合いを読んだうえでの選択でした。もう一つ、広く信じられている話も改めておく必要があります。1995年のミュージカル『明成皇后』など現代の作品で彼女の本名として使われる「ミン・ジャヨン」は、史料に記録された名前ではありません。実の名前さえ、確かな記録が残っていないのです。いま出回っている閔妃像の多くは、わずかな史実に脚色を重ねてできあがったものと考えたほうがよいでしょう。
閔妃暗殺事件:明成皇后はどのように亡くなったのか?
1895年10月8日の未明、日本人の刺客と朝鮮人の協力者が景福宮に押し入り、宮殿の奥にある王妃の居所、乾清宮で彼女を殺害しました。遺体は近くの林へ運ばれ、焼き払われています。乙未事変の記録では、この作戦を率いていたのは日本の駐朝鮮公使・三浦梧楼で、着任からわずか37日目のことでした。日本の元号でいえば明治28年の出来事で、『精選版 日本国語大辞典』は「閔妃暗殺事件」という見出しでこの事件を収めています。事件後、日本政府は関係者を本国へ召還し、広島で軍法会議などの裁きにかけました。ところが1896年1月20日、軍人も民間人も区別なく、全員が証拠不十分として放免されます。多くの歴史家はこの幕引きを、暗殺が一部の暴走ではなく国家の意思によるものだったと日本が暗に認めた証拠と受け止めています。高宗が大韓帝国の成立を宣言したのは、彼女の死から2年後の1897年です。明成という追号も皇后の位もこのとき贈られたもので、生前の彼女が皇后と呼ばれたことはありません。
なぜ明成皇后は今も繰り返し注目されるのか?
ドラマや舞台は彼女を何度も話題の中心へ連れ戻しますが、その多くはいまだに「悲運の犠牲者」か「策謀家」かの二択に押し込めています。宮廷の記録をひもとけば、そこにいるのはどちらの型にも収まらない、したたかで、朝鮮の行く末を実際に左右した政治家です。脚本と史料のこうしたずれは、朝鮮王朝の宮廷ドラマにほぼ共通しています。時代を変えて同じ問いを立てた『東宮』はどこまで史実なのかも参考になります。日本語でじっくり読みたい方には、ノンフィクション作家・角田房子の『閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母―』があります。1988年に第1回新潮学芸賞を受けた作品で、1993年には新潮文庫版も出ています。乙未事変の現場を自分の目で確かめたいなら、景福宮の北端に残る乾清宮へ足を運ぶのが近道です。宮殿めぐりの日を決める前に景福宮と昌徳宮のどちらを選ぶかを読んでおくと、計画が立てやすくなります。彼女の宮廷を律していた儒教の礼法は、いまも韓国の職場や親族の集まりに息づいており、その背景は儒教文化とお辞儀の歴史で詳しく紹介しています。
よくある質問
Q: 明成皇后と閔妃は同一人物?読み方は?
同じ人物です。「閔妃」は1897年より前の身分にもとづく呼び名で、日本の辞書では「びんひ」と読み、「ミンビ」を見出しに立てる人名辞典もあります。「明成皇后」は、彼女の死から2年後に高宗が大韓帝国を宣言したときに贈られた追号です。
Q: なぜ一部のドラマは閔妃を悪女として描くのか?
閔氏一族の登用にまつわる宮廷の腐敗は実際にあり、1880年代には政敵や外国の観察者によって盛んに報じられました。一部の作品はこの記録をふくらませて完全な悪役に仕立て、近代化への取り組みや日本に抗った動きには触れずにいます。
Q: 明成皇后は本当に近代化を進めたのか?
進めました。彼女の宮廷は1885年に朝鮮初の西洋式国立病院の開院を後押しし、外国の行政を学ばせるために官僚を海外へ送り出しています。1890年代には、朝鮮半島への日本の影響力を削ぐ目的でロシアの支援も求めました。
Q: 閔妃暗殺事件の犯人は誰か?
日本公使・三浦梧楼の命を受けた日本人の刺客が、一部の朝鮮人協力者とともに、1895年10月8日に景福宮の中で彼女を殺害しました。
Q: 閔妃(明成皇后)の本物の写真は残っているのか?
本人と確かめられた写真は一枚もなく、本物がそもそも存在するのかについても歴史家の見方は分かれています。ネットで「閔妃の写真」として最もよく見かけるのは、宮廷の装いで座る女性の一枚です。これを最初に載せた西洋の書籍には「正装した朝鮮の女性」という説明しか付いておらず、韓国の研究者は2000年代初めから、王妃の礼服にあるはずの刺繍がないことを理由に、写っているのは宮中の女官だと論じてきました。2003年に家宝として公開された別の写真についても、専門家は身分の高い女性ではあるものの本人ではないと判断しています。名前と同じく、世に広まった「閔妃の顔」の多くは後の時代の再構成です。
Q: 明成皇后はどこに埋葬されているのか?
ソウルの北東、京畿道南楊州市金谷洞にある洪陵で、高宗とひとつの墳丘に眠っています。墓所は一度ならず移されました。1896〜97年に清凉里へ移されて洪陵の名が付き、1919年に高宗が亡くなると金谷へ移され、二人は合葬されています。1970年5月26日には国の史跡に指定されました。王陵ではなく皇帝陵の形式で造られており、丁字閣の代わりに寝殿が置かれ、参道には象やラクダの石像が並びます。
Q: 「閔妃」「明成皇后」「王妃明成皇后」、正しい呼び方はどれ?
検索ではどれも見かけますが、史実に照らして正確なのは一部です。「閔妃」は1897年より前の彼女を指す呼び名として正しく、閔は氏族の名、王妃は朝鮮王朝での実際の位でした。「朝鮮の明成皇后」は話の流れを通しやすくするための通称で、厳密には明成という名も皇后の称号も、高宗が王室を大韓帝国へ組み替えた1897年に初めて与えられたものです。いちばん不正確なのは「王妃明成皇后」です。生前の位(王妃)と死後に贈られた名(明成)をつなげているため、当時の一次史料には出てきません。
聖女の物語も悪女の物語も脇に置いて記録をたどると、残るのは30年近く政敵の裏をかき続けた19世紀の政治家の姿です。そして最後には、外国の政府から生かしておくには危険すぎると見なされた人物でもありました。

特集 歴史的人物と世界遺産